昭和48年3月24日 朝の御理解
信心の心得 「一、天が下に他人という事は無きものぞ。」
神様の願い、神様の思いを分からせて貰うことがお道の信心です。勿論、その分かると云うだけではなくて、その心にお応えをする生活が金光様の御信心です。
金光様の御信心は金光大神のお取次に依って天地金乃神様の大恩を分からせて貰うと同時に神様のお心を分からせて貰う。
その神様が天が下に他人と云うことはなきものぞと教えておられます。地球上に住む人間が一人一人が天地金乃神様の、いわば可愛い子供であり氏子である。黒かろうが黄かろうが、白かろうが人種の差別等と云うものが有ってよかろう筈が無い。みんな天地の親神様の可愛い氏子である。
してみると、私共は成程他人と云うことはないと云うことが分かる。他人と云うことはないと。
私は昨夜十二時から十二時、一時、二時と三時間ここへお礼に出て来ました。もう只布団の中からお礼を申し上げる様なことでは足りない。もう本当に感動が感動を呼ぶと申しましょうか、もう有難うて有難うして只有難い。
そして思うたんです。こういう有難いものをですね、本当に世界中の人に分かって貰える手だてはないものだろうか。
そしたら御心眼に、御理解に頂くのが国慶日ですね、いわゆる国の慶びの日には軒毎に日章旗を立てて喜ぶ。これは世界どこでもそうらしいです。
その国慶日に国民の全てが日の丸の旗を、例えば揚げてその喜ぶ意志を表す。そういう程度にでもよいから年に一回でもよいから天地の親神様の大恩を知り、お心を分からせて貰うて、あることの喜びをです、地球上に存在する人間の全てが何かそこに旗なら旗を揚げてからでも、その意を表す手立てはないものだろうか。
私がその世界中の人にこの有難い心持ちを分かって貰う手立てはなかろうかと思うたらね、そういう意味の事を頂いた。お互いが本当に日々を和らぎ賀ぶ心、不平不足のない信心。そういう生活。
ですからそういう心の状態が開けて来るところに人間の生活の条件とでも申しましょうか、もっとそれを深く云うと、幸せの条件とでも申しましょうか。生きていく条件、いわば幸せになって行く条件と云った様なものが次々と与えられてくるところのおかげ。
その日暮しでは有りますけれども、本当に神様が勿体ない、この様なおかげを頂いて有難いなあと云うのは、生活の条件を神様がその人なりではあるけれども、与えて下さってある。
その日暮しが困るてんなんてんもんじゃなくて、そこに本当に有難いものを感じなければ、これはもう生きて行く条件にそれが必要なんです。衣食住の全てが・・・・
それが段々有難くなって来るところから、もっともっと有難いものになって来る。その有難いものが感動が感動を呼んでくる。どうか、じっとしてはおられないものになってくる時です、そこにはもう幸せの条件の全てが足らうようになるんだと云うことです。
幸せの条件と云うならば、先ず健康でなからなければならない。お金も云うなら余る程しに持っておる。家族は勿論円満である。そしてこの様な美味しいものを頂いて、この様な立派なものを着せて頂いて、この様な立派な家に住まわせて頂いてと云う様なです、いわゆる幸せの条件というものが足ろうてくるのです。
もう私夕べばっかりは、もう本当にそれを実感しました。そしたら今朝、この天が下に他人と云うことは無きことぞと仰るが本当にそれが神様のお心であり神様の願いであり、
ですから、他人はないおのであるから、お前だけが幸せであっても出来ん。それをお前の縁のある限りの人に同じ幸せを味合うて貰う事こそ、親神様の願いであり私共の又願いでもある訳ですけれども、その願いに応え奉る信心生活と云うものがなからなければならないと云うことである。
もう、例えばね、休んでおる、眠っておると云う時には、もう無我です。どんなにですね、強情と云うか、極悪人と云うかどういう人であっても、もう眠っておる時には仏様、もう神様と同じ事。
昨日こちらへ出てこんなことを頂くのです。「寝のうちに真を頂く、身も神も養うて下さる」
例えば体が悪いときには寝ておるうちに神様が修繕して下さっておる。神様が養うておって下さってある。寝のうちに夏も得ることが出来、身も神も養うておって下さってある。
だから実を云うたら眼が覚めるたんびに有難うしてこたえんと云うのが当り前なんです。
私は皆さんも御承知の通り沢山お水を頂きますから、一時間その寝ておる間に、もうその一時間が何時間も寝た様な気持ちなんです。しかし時計を見るとまだ一時間しかやすんでいない。もう何時間も熟睡した様な気持ち、ああまだ二時間も寝られると云う訳です。又その一時間が又何時間も寝たような気持ち。
しかもその寝ておる間に頂いておることの、まあ言葉で表現できませんけれども、もう本当にそれは有難い有難い。もう本当にどうかなるとじゃなかろうかと云う位有難か。
寝間着の上から上っぱりを着ただけではありますけれども、ちょいとお広前に出て来なければおられないと云う程しの感動であった。そしてこの有難いと云うこれをです、本当に世界中の人間に分かって貰えれる手立てはなかろうか。何故そう思うか、それは人間はみんな神の氏子であり、云うならば同胞である。いわば身内である。 もう本当にこの信心の有難いと云うものがいよいよ高度を極めて来ると云うことがそういう手本の様なものじゃなかったろうか。 いつもそんなに有難いと云うことじゃないのですけれども、もう昨夜ばかりはそうでした。
成程神様が休んでおるうちに人間の我情もない、我欲もない、その時に真を注いでおって下さる。その時に体の健康も一生懸命養うておって下さる。そして神と一体になるところの、云うなら神の氏子としてのものを一生懸命神様はそういう養う働きをやすんでおる間にしておって下さるのですから、この様に有難いんだなあと云うことになる。だから目覚めが有難い。
そこでです、寝ておる間だけ、その様に有難いと云うのではなくて、そういう有難いを頂くことの為に朝の、云うならば朝のすがすがしさ、昼の忙しさ、夜の有難さと云ったような日々でなからなければならない。
そういう意味に於てです、この朝と云う時間の素晴らしいことは言葉で形容出来ませんけれどもね。もう人間の幸せの一番の始まりの時間なんです。時間のお初穂です。
皆さんこうやって朝参りをなさると云うことは、もうそれこそ日のうちの日中の何時間にも相当する程素晴らしい有難いことです。
それを霊的にと云うか、私は自分の心の中ではそれが分かってるんです。けれどもそれが説明出来ませんけれども、その様に素晴らしいんです。
だからこの朝のすがすがしい朝参りと云うものが、どの位人間の健康の上にも幸せの、いわゆる条件を整えて下さる、養うて下さる為に必要かと云うことが分かります。
もう信心で頂く有難さと云うのは、もうここに極まったという程しの有難さと云うものを、私共やすんでおる間に下さるんですけれども、そういうそんなら寝た間にも神様の働きを頂いて自分に感じれれるおかげを頂くことの為に、昼の内にしっかり朝のすがすがしさ、昼の忙しさ、夜の有難さに持ち込んでこれれるおかげを受けておかなければ。
昼の内はてれんぱれんしておる。朝は何時迄でん寝とる。食うちゃ寝、食うちゃ寝と云った様なそういう寝(しん)ですね、寝ておる中に神様のそういう生き生きした働きを自分に感じ取ることが出来る筈がない。
昨日高橋さん所の職人さんのお届けがあった時、御神米を下げるときに頂いた御教えですけれども、「迷いは乱れを招く」と頂いた。 もう心は神様一つにね、いつも神様のおかげを頂かなければ立ち行かんと云う一つの思い込みと云うものがどんなに素晴らしい事かぐずぐずしておる、迷うておると云うことは必ずそこに乱れを招く。 信心は悟りと言われているが、「悟りの喜びは和を招く」といいいろんな心配を、悩みを持って来るでしょう。参って来よるうちに心が生き生きとしてくることもある。お広前に入った途端に有難うなる場合もある。お取次を頂いて御理解を頂くとほんにそうでした、お礼を申し上げねばならないことにこんな心配をしておった、不平不足を思うておったと云う、これが悟りなんです。そこから云うなら和が生まれて来る。
それれとは反対に迷うておる時には必ず乱れが生まれて来る。支離滅裂と云う様なことになる時は必ず迷うて迷うて迷うておる時です。
信心を求めながら迷うと云う事も有りますけれど、私共が難儀な問題といった様なことにです、迷いを感じる。そういう迷いは必ずよい結果は生まれない。必ず乱れを招くことになります。
だからいち早く神様へ心を向けなければならん。いち早くお取次を頂かなければならない。そしてああそうだと、腹が決まらなければいけない。そこから次の悟りが生まれて来る。そこから今度は和を招く。
今日は北野の中村さんの所の一年に一回の必ず今日と云う日を定めて宅祭があります。もう私がお話をして回っとった頃からの私フアンの方です。大変色々におかげを頂いてみえられた。
ある修行を成就された時に神様から、中村キクヨと云うカタカナでキクヨと云う名前であったけれども、喜び久しい代と書けと云う御教えを御本部の奥城で頂かれた。それから喜久代と云う感じで書かれるようになった。そしてその時の御理解がです、この喜を取ると後はくよくよになるぞと云うことであった。喜びを取ったらクヨクヨになるぞ。クヨクヨになったら、いわゆる迷うてくる、乱れてくる、これではおかげを受ける場ではなくて、反対に、いわゆる先日から頂くようにそういう心に悪魔の魅入る場と云うものがある。お道では悪魔と云うことはないですけれども、難儀はそうい隙からやって来るのです。
ですからその喜びがです、消えたり失せたりしたんでは人間クヨクヨになりますから、その喜びを目指しての信心、喜びを頂かせて頂くことの有難さを身にしみじみ感じられる信心。
そのためにです、朝のすがすがしい朝参り、そして昼は本当に中村さんがいつもお届けされます履物屋をしておられます、今日も親先生どうぞ忙しゅうお使い回しを頂きますようにと云うこれは必ずそういう願いをされます。
忙しゅうお使い回しを頂きますように、そこに夜の有難さと云うものが有る。今日も結構にお使い回しを頂いて有難かったと云うのである。 それがそんなら商売がでずーっと忙しゅうに繁盛すると云うことでもないでしょうけれども、もしその時には何なりともさせて頂くと云う事に依ってその忙しさを保たなければいけない。今日はお客さんもなかけん、いっちょ寝ろうかと云うことでは有難さになってこない。願いなんです、それが・・・そこに夜の有難さと云うことになる。
そして私が昨夜感じたようにです、一時間おきに起きてお礼に出て来なけりゃおられない程しの有難い感動、何故かと、寝ておる間に神様がです、真をいわば体を又は神と一体になる働き、そういう養いを受けておると云うことを身をもって心に感ずる。そこに有難い自覚と云うおかげが頂かれる。
そういう私は先ず自分自身の心の中にそういう有難いものが溢れる程しに頂けたとき、この溢れるものをどこにか、どう持って行かなくてはおられなくなってくるでしょう。
それを私が今朝から感じたようにこの有難いものを世界中の人間氏子の心の上に頂けるような手立てはなかろうか、そういうまあ、とてつもない願いを心に持たせて頂けるようになる。
それが私は神の心が分かり天が下に他人と云うことはないと云うことが分かれば分かる程、そういう思いが募って来るのでは無かろうかとこう思う
国慶日に国旗を揚げてその国民としての喜びを表すように、世界中の人間氏子がです、天地の親神様のこうした御恩恵の中にあるということをです、有難いとお礼申し上げる気持ちで世界中の人が、云うなら和賀心なら和賀心と云う旗でも揚げてしるしを表してゆける程しの働きという様なものをです、何とかして頂けないものだろうかと。
先ずは私の心の中から、先ず私の家庭の中から身にも心の上にもその喜びを身につけて行くところの養いを頂くと云うことをです、願いとする信心と云うことが有難いと云うことになる。尊いと云うことになるのです。
天が下に他人と云うことは無きことぞと教えられる。神様の心が分かり神様の思いに添わせて頂くということが信心なら、神様がこの様にして世界中の氏子がです、氏子の自覚を持って助かって行くことを願っておられるのだから、それを分からせて頂いた私達が先ずその有難いものを身につけて、それを世界中に広めて行こうと云う様な大きな祈り、大きな願いを持たせて頂いての日々でなからなければいけない。金光様の信心はその様に大きいのです。 どうぞ。